清浄歓喜智慧光

原文 書き下し文
清浄歓喜智慧光 (清浄・歓喜・智慧光)

目次

  1. (6)清浄光
  2. (7)歓喜光
  3. (8)智慧光

(6)清浄光

阿弥陀仏の十二のお力の中で、
6番目の「清浄光(しょうじょうこう)」という働きは、私たちの三毒の煩悩の中でも
貪欲(とんよく)」を照らす働きです。

貪欲」とは、の心ですが、欲というのは汚い心ですので、欲の深い人を汚い人と言われます。
その欲の心を清らかに、浄めてくだされる阿弥陀仏のお力が、清浄光です。

清浄」とは、汚いのと反対で、清らかということです。
そのきれいな阿弥陀仏の光が、私たちの汚い貪欲を照らして浄めてくだされるのです。

では、汚い私たちの欲の心が、阿弥陀仏の清浄光に照らされたらどうなるのでしょうか。

欲がなくなったり、少なくなるということではありません。

汚い欲の心を照らして、懺悔させる働きです。
親鸞聖人は、

悲しきかな、愚禿鸞、
愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず
恥ずべし傷むべし。(親鸞聖人『教行信証』信巻)

とおっしゃっています。

悲しきかな」というのは懺悔です。
愚禿鸞」は、バカでお粗末な親鸞だ、と、これも懺悔されているのです。

愛欲」は欲の心、
名利」も、名誉欲と利益欲という欲の心ですが、
愛欲は広い海のごとくある、名利は大きな山のごとくある、と言われて、
恥ずべし、傷むべし」と懺悔なさっているのです。

このような、恥ずべし、傷むべし、という懺悔が、清浄光の働きです。

愛欲も名利も、欲は少しも減りもしなければ、なくなりもしません。
阿弥陀仏の清浄光に照らされて、恥ずべし、傷むべしの懺悔となるのです。

これが、汚い私たちの欲を、照らして浄めてくだされる清浄光の働きです。
欲をなくするとか、少なくするということではなく、懺悔と変わるということです。

(7)歓喜光

7番目の「歓喜光(かんぎこう)」とは、三毒の煩悩の中の「瞋恚(しんに)」の心を照らす働きです。

瞋恚」とは怒りの心です。
私たちは、自分の思い通りにならない時、カーッと腹が立ちます。

人のせいで損をしたり、恥をかかせられたと思うと、いつ爆発するか分かりません。
一たび瞋恚の心に焼かれたら、何をするか分からない、恐ろしい心です。

その恐ろしい怒りの心を照らし出す働きが、歓喜光ですが、怒りの心が少なくなったり、腹が立たないようになるのではありません。

恐ろしい怒りの心を恐ろしいと知らせ、恐ろしいと知らされたら、懺悔となり、歓喜となります。

歓喜」とは、歓もよろこび、喜もよろこび、
恐ろしい瞋恚を恐ろしい心と照らして懺悔させ、喜びにしてくださる働きです。

(8)智慧光

8番目の「智慧光(ちえこう)」は、三毒の煩悩の中の「愚痴(ぐち)」の心を照らす働きです。

愚痴」の心とは、ねたみそねみ、うらみの心です。
なぜ他人をねたんだり、うらんだりするかというと、因果の道理が分からないからです。

因果の道理とは、すべての結果には必ず原因がある。
原因があれば必ず結果が生じる。
平たい言葉でいいますと、
まかぬ種は生えませんが、
 まいた種は必ず生える
」ということです。

しかも、この原因と結果との関係は、

善因善果
悪因悪果
自因自果

善いたねまけば、必ず善い結果が現れる。
悪いたねまけば、必ず悪い結果が現れる。
自分のまいたものしか、自分に現れない。

結果」とは運命、
」とは、行為ということですから
善いのも、悪いのも、自分の運命のすべては、自分の行いによってつくったもの、ということです。

仏教では、これが三世十方を貫く道理であると説かれています。
三世」とはいつでも
十方」とはどこでも
絶対変わらない大宇宙不変の真理であるということです。
この因果の道理が、仏教の根幹です。

この因果の道理が分からない愚かで馬鹿な心を
愚痴」といいます。

隣に立派な家ができると気分が悪くなる。
ところが、隣に立派な家が建つのは、隣の人が努力したからで、自分の家が立派でないのは、自分がそんなたねまきをしていないからです。

すべて自分のたねまきが現れたのですが、とてもそうは思えません。
だから隣に立派な家が建つと腹がたつ。
そのために苦しみます。

それは、因果の道理が分からないから、ねたんで、うらんで苦しむのです。

この因果の道理を知る力を「智慧」と言いますから、
智慧光は、私たちに「深信因果」させて、愚痴を照らしてくだされる働きです。

阿弥陀仏の智慧光によって、無明の闇が破られると、
深信因果」させられて、因果の道理がハッキリ知らされますから、愚痴の心が照らし出されます。

深信因果」させられて、愚痴を照らしてくだされるといっても、愚痴がなくなるとか少なくなるということではありません。

智慧光でねたみそねみの愚痴の心を照らされて、因果の道理が深く知らされておりながら、ねたみやそねみの心の起きる自分は、バカだなあ、と懺悔となります。

この因果の道理が知らされていなければ、それがどうしたと開き直るだけで、懺悔にはならないのです。

因果の道理、間違いないと深信させられているからこそ、因果の道理を受けつけない心が照らされて、懺悔の心が起きるのです。

ねたみやそねみの心が起きてくると、因果の道理が深信させられていますので、そんなたねまきだから、そんな結果しか出てこないのに、どうして人をねたむんだ、バカだなあと懺悔の心になるのです。
これが智慧光の働きです。

このように「清浄・歓喜・智慧光」は、108の煩悩の中でも最も恐ろしい三毒の煩悩、欲と怒りと愚痴の心を照らす働きです。
いずれもなくするとか、少なくするという働きではありません。

阿弥陀仏のお力によって、無明の闇が破られれば、
清浄光・歓喜光・智慧光によって、欲と怒りと愚痴の心が照らされて、懺悔となり、歓喜となります。

汚いものを汚いもの、
恐ろしいものを恐ろしいもの、
愚かな馬鹿なものを馬鹿なものと照らし出して浄めてくだされる、
喜びにかえてくだされる、
深信因果させてくだされる阿弥陀仏の絶大なるお力が、清浄・歓喜・智慧光です。

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